さらにドイツ軍は首都パリを目指す。敗色濃厚なフランス軍は散発的な抵抗しか出来ず、6月10日にはパリを放棄。同日、フランスが敗北濃厚になったのを見てムッソリーニのイタリアも、ドイツの勝利に相乗りせんとばかりに、イギリスとフランスに対し宣戦布告した。6月14日、ドイツ軍は戦禍を受けてないほぼ無傷のパリに入城した。6月22日、フランス軍はパリ近郊コンピエーニュの森においてドイツ軍への降伏文書に調印した。[5]なお、その生涯でほとんど国外へ出ることが無かったヒトラーが自らパリへ赴き、パリ市内を自ら視察し即日帰国した。その後、ドイツによるフランス全土に対する占領が始まった直後、講和派のフィリップ・ペタン元帥率いる政権ヴィシー政権が樹立される。
一方、ロンドンに亡命した元国防次官兼陸軍次官のシャルル・ド・ゴールが「自由フランス国民委員会」を組織する傍ら、ロンドンのBBC放送を通じて対独抗戦の継続と親独的中立政権であるヴィシー政権への抵抗を国民に呼びかけ、イギリスやアメリカなどの連合国の協力を取り付けてフランス国内のレジスタンスを支援した。[6]
7月3日、イギリス海軍H部隊がフランス植民地アルジェリアのメルス・エル・ケビールに停泊中のフランス海軍艦船を、ドイツ側戦力になることを防ぐ目的で攻撃し、大損害を与えた(カタパルト作戦)。アルジェリアのフランス艦艇は、ヴィシー政権の指揮下にあったものの、ドイツ軍に対し積極的に協力する姿勢を見せていなかった。それにも拘らず、連合国軍が攻撃を行って多数の艦艇を破壊し、多数の死傷者を出したために、親独派のヴィシー政権のみならず、ド・ゴール率いる自由フランスさえ、イギリスとアメリカの首脳に対し猛烈な抗議を行った。また、イギリス軍と自由フランス軍は9月に西アフリカのダカール攻略作戦(メナス作戦)を行ったが失敗に終わった。
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西ヨーロッパから連合軍を追い出したドイツは、イギリス本土への上陸を目指し、上陸作戦「アシカ作戦」の前哨戦として、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングは、8月13日から本格的に対イギリス航空戦「バトル・オブ・ブリテン」を開始するよう指令。この頃、イギリス政府はドイツ軍の上陸と占領に備え、王室と政府をカナダへ避難する準備と、都市爆撃の激化に備えて学童疎開を実施。イギリス国民と共に、国家を挙げてドイツ軍の攻撃に抵抗した。
イギリス空軍は、スピットファイアやホーカー ハリケーンなどの戦闘機や、当時実用化されたばかりのレーダーを駆使して激しい空中戦を展開。ドイツ空軍は、ハインケルHe-111やユンカースJu-88などの爆撃機で、当初は軍需工場、空軍基地、レーダー施設などを爆撃していたが、やがてロンドンなど、イギリスの諸都市に対して無差別爆撃を行った。メッサーシュミットBf-109戦闘機の航続距離不足で爆撃機を十分護衛できず、爆撃隊は大損害を被り、また開戦以来、電撃戦で大戦果を上げてきた急降下爆撃機も大損害を被った。その結果、ドイツ空軍は9月15日以降、昼間のロンドン空襲を中止。その後、ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期にする。